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管領細川持之を始め諸大名たちは

管領細川持之を始め諸大名たちは、邸へ逃げ帰ると門を閉じて引きこもってしまった。彼らは赤松氏がこれほどの一大事を引き起こした以上は必ず同心する大名がいるに違いないと考え、形勢を見極めていた。

実際には、将軍暗殺は赤松氏による単独犯行であった。満祐ら赤松一族はすぐに幕府軍の追手が来ると予想して屋敷で潔く自害するつもりでいた。ところが、夜になっても幕府軍が押し寄せる様子はなかったため、領国に帰って抵抗することに決め、邸に火を放つと、将軍の首を槍先に掲げ、隊列を組んで堂々と京を退去した。これを妨害する大名は誰もいなかった。

突然独裁者である義教を失った幕府は、管領の細川持之の指導力が欠如していたことから機能停止に陥ってしまった。将軍が殺された時に、管領でありながら戦いもせず、真っ先に逃げ出そうとした持之の臆病ぶりは嘲笑され、持之が満祐と結託しているという噂まで流れた。

翌る25日、ようやく持之は評定を開き、義教の嫡子千也茶丸(足利義勝)を次期将軍とすることを決定した。しかし幕府の対応は混乱し、赤松討伐軍は容易に編成されなかった。

これら幕府の対応の混乱は、義教の将軍親政策の結果という見方もできる。強力な指導力を持つ将軍がいたため、緊急時に管領以下の幕臣が指導力を発揮する機会が無かったということである。実際、赤松満祐を幕政から退ければ、将軍親政はほぼ確立したはずであった。

本拠地の播磨国坂本城に帰った満祐は、足利直冬(足利尊氏の庶子、直義の養子)の孫の義尊を探し出して擁立し、大義名分を立てて領国の守りを固め、幕府に対抗しようとした。

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7月1日、季瓊真蘂が坂本城を訪れ、義教の首の返還を求めた。満祐は快く首を返還した。真蘂が京へ首を持ち帰り、6日に等持院で義教の葬儀が行われた。
その後、細川持常、赤松貞村、赤松満政の大手軍が摂津国から、山名持豊ら山名一族が但馬国、伯耆国から播磨、備前、美作へ侵攻する討伐軍が決定した。大手軍は7月11日に発向したが、事実上の総大将であった侍所頭人・山名持豊はなかなか京を動かなかった。その間に持豊配下の兵士が「陣立」と称して洛中の土倉・質屋を襲撃して財物を強奪した。これには管領・細川持之も怒り、数日たってようやく持豊が陳謝するという事件がを起こっている。

7月初旬に山名教清が伯耆国から美作国へ侵入した。同地の国人はほとんど抵抗せず、美作国は山名勢に制圧された。

細川持常、赤松貞村らの大手軍は摂津国西宮まで進出。25日に赤松教康は幕府軍に夜襲をしかけるが、同士討ちが起きて退却している(庫御所合戦)。大手軍は戦意が低く、但馬口の山名持豊が動かないため進軍を止めてしまった。

山名持豊は7月28日にようやく京を発し、但馬国へ向かった。

8月1日、持之は赤松討伐のための治罰綸旨を奏請し、後花園天皇はこれを許した。公家の中には満祐に同情する者や、赤松氏は朝敵ではなく武家の私闘であるとして反対する議論もあったとされる。また、村上源氏の久我清通がこれを機に足利義満の時代に奪われた源氏長者の地位を取り戻すべく活動をしていたが、幕府は何の対策を打ち出せなかった(11月2日に清通は源氏長者に補任される(『公卿補任』)。

8月19日、摂津国の大手軍が動き、細川持常、赤松貞村は陸路から、細川持親は海路から塩屋(神戸市)の教康の陣を攻撃した。教康は陣を放棄して蟹坂へ後退し、大手軍はようやく播磨国へ入った。24日、教康は逆襲に出て両軍は激しく戦う。25日、大雨の中を幕府軍は蟹坂の陣へ攻撃を行った。教康は奮戦したが、但馬口が突破されたとの報(虚報であった)を受け、戦意を失って坂本城へ退却した。(人丸塚の戦い)

8月中旬、山名持豊は4500騎をもって但馬・播磨国境の真弓峠に攻め込み、この方面を守る赤松義雅と数日にわたり攻防があった。28日、持豊は真弓峠を突破し、退却する義雅を追撃しつつ坂本城に向かって進軍した。30日、両軍は田原口で決戦を行い、義雅は善戦するが力尽き敗走した。

9月1日、持豊の軍勢は坂本城へ到り、持常の大手軍と合流して包囲した。守護所の坂本城は要害の地とは言えず、3日になって満祐は城を棄てて城山城(兵庫県たつの市)へ移る。

赤松一族は城山城へ籠城するが、山名一族の大軍に包囲された。9日、義雅が逃亡して幕府軍に降服し、播磨国の国人の多くも赤松氏を見放して逃げてしまった。10日、幕府軍が総攻撃を行い、覚悟を決めた満祐は教康や弟の則繁を城から脱出させ、切腹した。

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2009年04月26日 15:19に投稿されたエントリーのページです。

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